おかげさまで予定より早く、1週間で退院しました。
退院のご報告を書こうと思いながら、驚くような体験をしておりました(笑)
火曜に退院し、さっそく翌日、突発性難聴経験者の友人が紹介してくれた鍼治療院に行ったのですが。
どうも私には合わなかったようです。
いろいろといい勉強になりました。
誰かの参考になるかもしれない。
ことの顛末を書いておきます。
その治療院は、一日に4回まで集中して鍼を打てる、というのを強調しており、とにかく続けてもう1回、もう1回と勧められました。
なにしろ鍼治療は初めて。よくわからないまま、言われるままにお願いしてしまったのですが。
3回目が終わって、自分の口から勝手に「もういいです」が出てきました。
身体からの声だったと思う、アレは。
断ってホントよかった。
アタマがぼーっとして働かない。
動くのも大変。
フラフラする中、続けて明日も受けた方がいいと次の予約やら回数券の購入やらを勧められるも、フラフラするがゆえに全部断れた。
だってなんにも考えられないんだもん(笑)
駅にたどりついても、どの電車に乗って帰るのか考えられず、駅構内をあっちに行ったりこっちに行ったり…。
表示をにらめっこして、やっとこっちだと思いホームに上がり、電車に乗ったら逆方向だったという…(-_-)
鍼ってこういうものなの???
これを乗り越えると、すっきり治るものなのかしら…
頑張って明日も受けた方がいいの?
と、アタマがぐるぐる渦巻く中、「そうだ、つかさん!」と浮かぶ。
つかさんこと、田村百合子さん。
私のクラ友さん(クラニオセイクラル・バイオダイナミクスを共に学んだ友人)です。
「からだと」というHPのタイトルが示す通り、からだオタク。鍼灸マッサージ師の資格も持っている。おまけに、プロファイルは私と同じメカニック(^^;)
「鍼って、こんなに打っていいもの?」と治療院の名前と共にメッセージしたところ、ソッコー返事が返ってきた。HPも検索してくれたのね(嬉泣)
鍼治療は向き不向きがあります。
そこは西洋医学的な鍼治療かもですね。
おを!確かに!!
右耳の周りだけに鍼を打たれて、あれ?って思ったんですよ。
痛かったら痛いところを叩く的なの?東洋医学って全身を見るんじゃなかったっけ???と。
しかし、ひとくちに鍼と言ってもいろいろあるのね。そんなの知らなかった…。
大野木さんはエネルギー療法的な観点からの治療の方が向いてるのではないかという気がします。伝統的な経絡治療系とか。それか、そもそも鍼が向いてないかも。
メカニックらしいきっぱりとしたお返事(笑)
すっかり腑に落ちました。
腑に落ちたら、やっとなんかちょっとだけ落ち着きまして、そしたら身体からの声がどわ~っと出てきたんですよね。
「あ~、もうイヤだ~、行きたくないぃぃぃ~~~」
なんかドーピング的で、身体が泣いてる。
身体が泣いてるんです。ホント、そんな感じ。
とぼとぼふらふら、心で身体が泣きながら(笑)やっとのことで家に帰りつき、とにかく寝ました。
一夜明け。
身体はぼーっとしたまま、ふわふわしたまま。
難聴がどうしたとかいう話ではなく、心ここにあらずというのか、身体ここにあらずというのか。
ところで私、去年の11月から『ばいたるえなじ~』のしげさんの門下生になりまして、エネルギーの使い方を学んでいます。
毎朝、気を整える「練功」をしているのですが。
驚いたことに、この日の朝は練功が出来なかった。
なぜなら、整える「気」が無いから。
身体の中がからっぽで、エネルギーが無い。
いつもは自分のエネルギーを感じることが出来ます。
その日によってエネルギーは違うんですよね。
だけどそのエネルギーが、まったく無い。
無いから練功のやりようがない。
しょうがないなぁ。
ただじっと回復するのを待つしかない。
ケンカしてけがをした猫って、家の隅っこの暗いところでじーっとしてますよね?
そんな感じ(ってどんな感じだ(^_^;))
こりゃもうどうしようもないな~、と思いつつ、まこさんに連絡。
運よく、夜、しげさんに家に来てもらうことが出来ました。
「カラッカラだね」と、しげさん苦笑。
まずは右腕から緩めてもらったあとの写真がこちらでございます。
これは、ただ両手を前に揃えて出しただけ。
つまり、身体の左側が縮んでいる。
ここまで差が大きいのは、さすがの私も初めてです。
もう笑うしかない。
っていうか、やっと少し笑えるようになった。
それまで、人間じゃなくなってましたから(笑)
しげさんに身体を緩めてもらって、すっかり生き返りました。
エネルギーが蘇った。
人間に戻った。
人間の身体って、ホント不思議。
こんなに簡単におかしなことになっちゃうんだと、妙に感心。
だからやっぱりツールって、使い方を間違うとキケンだとも思う。
確かに治療実績もあり、助けられた人もいるでしょう。
でも、治らなかった人も確実にいるはずなんですよね。もしかしたら完治した人の何倍何十倍何百倍も。
完治したという治療実績は、文句なく素晴らしいことです。
だからといって、そのやり方では完治しないという治療実績を、切り捨てていいのだろうか。無視していいのだろうか。
そこには「人」がいる。
「数」ではなく。
「数」を追えば「人」を忘れる。
治りたい・治したいも執着。
ふとそんなことを思った。
ちょうどこの日の朝、Facebookで「3年前の今日」の投稿が目に入ったのです。
魔法なんかないよ。
ずっとそう言い続けてきました。
3年前の私は「矛盾」を感じながら生きていて、それは無くならないと思っていた。
でも今は思うのです。
矛盾など何もない。
本当は魔法もある。
ただ、この世界には時間というものがある。
魔法が現実に形となって現れてくるには時間が必要。
「今すぐ」「一瞬で」は無い。
魔法はすでに起きている。
まだ目に見えていないだけ。形になっていないだけ。
魔法に必要なのは「想い」だけだ。
「想い」を持った瞬間、世界はすでに変わっている。
魔法は起きているのだ。
それが現実に影響を及ぼすのを待てるかどうか。
カギはそれだけ。
入院中に読んだ、OSHOの『草はひとりでに生える』の一節がまた、よみがえりました。
あなたの用意ができる瞬間が突如として来る。
そしてあなたの忍耐は時間上のものではなく、永遠のものとなる。あなたは何かを待つのではなく、ただ単に”待つ”だけだ。なぜなら待つこと、それは美しいことだからだ。待つことは祈りに満ちた気分をかもしだす。
待つこと自体、深い瞑想だ。そして待つというそのことが、とりもなおさず大きな成果となる。
誰が他のことに構っていられよう?
私は、「完治」を焦りすぎていたのかもしれません。
とっとと早く完治しなければと、無意識に自分を追い立てていたのかもしれません。
待つことの美しさ。
味わうのもいいかもしれない。
「ていねいに生きる」
ある人の言葉が頭に浮かびました。
この言葉の意味が、この言葉を選んだ理由がわからなくて、ずっと自分の中に「問い」としてありました。
問いを立てれば、答えは自ずとやってくる。
ていねいに生きよう。
それはきっと、待つことの美しさであり、祈りでもあるでしょう。
ゆっくり生きるということは、案外贅沢なことなのかもしれない。
途方もなく豊かなことなのかもしれないね。
結果ではなく、プロセス。
どうやら今は、これを真に学ぶタイミングのようです(笑)